批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

映画『Happy Hour』(2015 / 日本 /317分)を見て来ました。

 

 以前、このブログでアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』を紹介しましたが、この度は映画紹介第二弾です。
 映画紹介は切りがなくなりそうなので出来るだけ避けたいのですが、やはり書かずにはいられませんでした。作品は濱口竜介監督の『Happy Hour』(2015 / 日本 /317分)。去年の12月に一度ロードショーをしたようですが、ふたたびのアンコール上映で、2月6日〜2月19日まで渋谷イメージフォーラムで再上映しているのを先日見て来たという次第です。濱口監督の作品というのはDVD化されないと聞いていますから、東京であれば今しか見ることができないのかもしれませんが、上映時間が5時間17分ですから、さすがに一部から三部まで全部観るには一日がかりとなります。ただ、それでも、ここまで濃密な映画体験は、最近ではなかなか珍しいのではないでしょうか。
 人間の脆さ、関係の危うさ、人生のやり切れなさ、その全てが「時間の生成」というたったそれだけの事実、しかも、誰もがそこから逃れることのできない時間の事実によって運ばれていきます―なんて「映画」に相応しい主題でしょうか―。取り返しのつかない大きな衝撃が、しかし、時間を微分しなければ見えてこないような小さな出来事の反復の結果として突如現れる様は、まるで人生における「バタフライ効果」を見ているようです。時間は、どんなに小さな夢、目的、見透し、意図をも裏切って進んでいきます。人は人と関係するから「間違う」のですが、しかし、人が人と関係しなければ、そもそも人間は「人間」ではあり得ない。とすれば、「あそこで、あのような関係を持ったから私の人生は間違ったのかもしれない」などと言うことはできません。人生とは、そんな「関係=間違い」の結果として、今、ここにあるからです。が、この映画は最初から、時間とは、人生とはそういうものだと確信しており、またそれを受容しているように見えます。だから、これほどに不条理で残酷な物語を綴りながら、映画自体は限りなく繊細で優しく肯定的な表情を湛えているのでしょう。
 語りたいことは山ほどあります。が、書き出すと、いつもの癖で分析的な言葉を書き連ねてしまいそうなので、この辺にしておきます。

 しかし、こういう本質的な映画を見ると、つくづく「目的」を持った政治評論などバカバカしくてやってられなくなります。でも、それも一瞬のことで、またぞろ「目的」を引きずり出してしまうのも人間なのかもしれませんが。

 以下は、『Happy Hour』の公式サイトです。興味のある方は是非。
 http://hh.fictive.jp/ja/