批評の手帖

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「小林秀雄と文藝春秋」(『文藝春秋』2022年10月号)の寄稿と、冨民動画一つ

 色々あって少し告知が遅れてしまいましたが、今月号の『文藝春秋』に「小林秀雄文藝春秋」という長めの評論(50枚)を寄稿しています。
 『文藝春秋』の「創刊100周年記念企画」の一環での寄稿というという事になりますが、『小林秀雄の「人生」論』(NHK新書)の山本七平賞・奨励賞受賞が決まったのが9月7日で、その2日後の9月9日に「小林秀雄文藝春秋」が出るという、なんともいいタイミングになりました(笑)。
 小林秀雄についてはもう発見はないだろうと思っていましたが…、つくづく人生は意識を裏切ってきます(笑)。今回の評論を書くに当たって、やっぱり新しい発見はありました。小林は「私小説論」(昭和10年)のなかで「社会化した私」という言葉を使い、後に、それを「伝統」(昭和11年)との関係で語り直すことになりますが、その背後には、単にドストエフスキーの思想(ナロード思想・スラブ民族思想/「ドストエフスキイの生活」連載・昭和10年~12年)からの影響だけではなく、文藝春秋社に版元を移す前の貧乏雑誌『文学界』(昭和8年~11年)を運営しなければならなかったことの極めて泥臭い経験があったのです。
 そして、この経験が、小林に〈読者=民衆=他者〉とのあるべき関係を思考させ、また、その倫理的な関係(書くことと売ることのバランス)を築いていた「天才・菊池寛」への敬意を育てていたのです。それを小林は「通俗性ならざる大衆性」という言葉で表現していますが、これが実現できるかできないかが「物書き」として決定的な点なんでしょう。要するに、世間に対する「迎合ならざる順応」です。
 しかし、そこに気がつくことが出来たのは、おそらく私が、同じく貧乏雑誌『表現者クライテリオン』に関わってきたからです(笑)。文芸誌の連載を断ってクライテリオンに集中した最初の2年くらいは、みるみるうちに貯金が減って行く現実に、「オレの人生はどうなってしまうんだろう…」と思いましたが(笑)、その点、「任運自在」と構えて何でもやってみるものです。ご興味があれば、是非、一読していただければ幸いです。


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 あと、こちらは新刊『ぼんやりとした不安の近代日本―大東亜戦争の本当の理由』(ビジネス社)についての解説動画です。
 この日本冨民安全研究所の動画は、飽くまで「入門」ですが、次回からじっくりと、明治~大正~昭和と順を追って動画を作っていく予定です(とはいえ、重苦しくならないように、あくまで松本さんとのザックバランな対談形式(パワポなし)で、「現代」との関連させながらやっていこうと思っていますが…)。
 こちらの仕事に関しては山本七平の影響の方が大きいですが、その点、これもタイミングがいい動画になっています(笑)。よろしければ是非。