批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

2022年「すばるティーク賞」(…最後のクリティーク賞)が発表されました!

 明けまして、おめでとうございます!
 「おめでたい」話題の少ない、今日この頃ですが、そんなときだからこそ、今年は「自分の足元」を見つめる時間を積極的に作っていかねばと思っています。とはいえ、やるべきことは昨年と変わらず、緊張感を持ちつつ、原稿執筆・雑誌編集・大学教育・表現者塾などの仕事をしていくだけですが(笑)。本年も、何卒よろしくお願いいたします。


 今年最初のブログは、恒例のこととはいえ、2022年の、そして、今年で終わってしまう「すばるクリティーク賞」の告知です。
 2022年の受賞作は、鴇田義晴氏による「90年代サブカルチャーと倫理――村崎百郎論」です。今年は、応募作品全体のレベルが低調で、なかなか受賞作が決まらなかったんですが、「最後」ということもあり、鴇田義晴氏の村崎論を推させていただきました。
 評価の理由については、選考座談会(大澤信亮氏×杉田俊介氏×上田岳弘氏×浜崎)のなかで言っているので、ここで繰り返すことはしませんが、「90年代」という、その時代を生きてきた本人でさえ分かり難い「過渡期」の意味を、非常に喚起的な形で描いてくれています。やっぱり、色んな意味で——対米関係とナショナリズムの問題、憲法問題、自衛隊問題(PKO問題)、グローバリズムへの姿勢、改革主義の猖獗、緊縮、デフレ等々の意味で——、あそこが「転換点」だったんでしょう。鴇田氏の評論を読んでいると——飽くまでサブカルチャーの視点を通じてですが——、あそこが「80年代的なるもの」(SDGsにまで繋がるポストモダン的虚構)が勝つのか、「70年代的なるもの」(辛うじて残っていた土着的身体的思考)が勝つのかのギリギリの分かれ目だったんだと感じます。
 で、「80年代的なるもの」(ポストモダンの浮かれ騒ぎ)が勝った結果として、このザマです。もちろん、それは世界的現象なのかもしれませんが、戦後日本の場合、それは〈9条—安保〉体制とのアマルガムとして、より腑抜けたもの、より不真面目なもの、より偽善的なるものへと堕していったように見えます。
 いや「文芸業界」だけなら、所詮半分は「お遊び」の世界なので、それでも良かったのかもしれません。が、誰も本気でしていない「マスク」を見ても分かるように、今や、日本人全体が「お遊び(ごっこ)」以下の、硬直した「建前」(ことなかれ主義、臆病、コンプラ、ポリコレetc…)のなかに一切の自立的な「思考」と「本気」を溶解させてしまったかのように見えます…(日本人の「いつでも、どこでも」のマスク姿を見ると、私などは、戦前の国民服やモンペ服を思い出してしまいます)。
 と、これ以上書くと、せっかくの受賞作を前に、またいつもの愚痴になりそうなので、このへんにしておきましょう(笑)。


 かつてキェルケゴールは、「必然的な物事だけを呼吸するのは不可能で、それでは人間の自己は窒息してしまうばかりだからである。…彼(可能性を失っている決定論者)は祈ることができないのだ。祈ることというのは呼吸することでもあり、自己にとっての可能性とは、呼吸にとっての酸素に相当する。…祈るためには、神と自己が——そして、可能性が——なくてはならない」(『死に至る病』鈴木祐丞訳)と書いていました。そして、人生が続く限り、まさに私たちは「呼吸」をせざるを得ないのです。安易な「可能性」などどこにも見出せない時代だからこそ、私たちは、それでも「呼吸」をするために「祈り」を見出すのでしょう。
 「群像新人評論賞」に続けて「すばるクリティーク賞」も終わるということで、今年で「批評」の新人賞は全てなくなってしまいますが(ただし、「表現者賞」「表現者奨励賞」は、まだまだ現役で続いています!…笑)、しかし、そんな時代だからこそ、これからは、なおさら言葉で「呼吸」することが問われてくるのだと思います。私自身、新人賞に応募したことも、新人賞を貰ったこともありませんが、だからこそ鍛えられた部分もあると思っています。新たな批評的才能が現れることを祈っています。
 それを準備するための精神と姿勢、それを守るための言葉に向けて、今年も精一杯精進していく所存です。何卒、よろしくお願いいたします。