批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

毎日ナビゲートに「カフカ的『新自由主義』」を寄稿しました。

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 そろそろ、クライテリオンの最新号の発売日ですが、それにも関連してナビゲート2021:カフカ的「新自由主義」=浜崎洋介(批評家) | 毎日新聞を寄稿しました。
 内容は、表題通り、カフカの『城』ばりの不条理感を醸し出している「新自由主義の奇妙な不死」(コリン・クラウチ)についてです。目の前に「城」(現状からの脱出口=答え)は見えているのに、なぜか、そこに辿り着けないという不条理感は、まさにカフカの描く「構造的不条理」だと言えますが――カミュサルトルが描く「主体性」の不条理ではありません――、岸田政権も、またその「構造的不条理」の罠に嵌っているように見えます。要するに、出発する〈視点≒前提〉を間違えると、どうしたって、その悪循環からは抜け出られないのです。
 では、その間違えている〈視点≒前提〉とは何なのか?
 それは、一言で言えば「個人的能力の発揮」を絶対価値とする近代主義です。この近代主義(資本主義)的前提を捨てない限り、「新自由主義」が、どんなに悲惨な現実を突きつけようと、その「奇妙な不死」は、いつまでも続きます。逆に言えば、そんな近代主義(資本主義)への歯止め=共同体の保守こそが「政治」の役割なのだという前提さえ置くことができれば、「個人的能力」も、少なくとも今よりは発揮されるはずです。面倒なので、その「理路」についてはここでは述べませんが(……気になる人は、『「倫理」と「国家」とはどのように関係するのか――スピノザに倣いて』ログイン ‹ 表現者塾 — WordPressや、【浜崎洋介】政府の「移民政策」を批判する――人はパンのみにて生きるにあらず | 表現者クライテリオンや、【浜崎洋介】「デフレ」とは何か――それが「心」に与える影響について | 表現者クライテリオン、あるいはナビゲート2021:「世間」の再構築に向けて=浜崎洋介(批評家) | 毎日新聞などを参照してください)、この逆説が肚に落ちるのか、落ちないのかが悪循環と好循環の分かれ目になります。
 かつて、福田恆存は「人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。さうしないと、パンさへ手に入らなくなる」(「消費ブームを論ず」昭和36年/『保守とは何か』文春学藝ライブラリー)と書きましたが、この逆説(常識)が分かる人間が少なくなってしまったことが、全ての「悪」の原因なんでしょう(ハァ……)。