批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

ナビゲート2020に、「『コロナ』との闘いを支えるもの」を寄稿しました(+α)

mainichi.jp
 毎日新聞の「ナビゲート2020」に、「『コロナ』との闘いを支えるもの」を寄稿しました。
 私の主張は「コロナウイルスから社会を守るはずの行動が、逆に、社会生活そのものを破壊してしまっては元も子もない」という点につきます。
 では、今、現在の「コロナ対策」には、どのような視点が足りないのか。
 それは、人は人と接することでその「力能」(スピノザ)を維持している動物であるという視点です。つまり、ヒステリックな「封じ込め」戦略は、経済のみならず、「コロナ」と闘っていく際の私たちの「やる気」そのものを冷やしかねないのだということです(しかも、一律補償なき自粛要請ならなおさらです)。
 では、どうすればいいのか。それを書く紙幅はありませんでしたが、それこそ「バランス感覚」が必要なのでしょう。
 まず、自粛を徹底すべき時と処と人と、そうでない時と処と人との明確な区別です。つまり、感染拡大=医療崩壊を防ぐためのパラメーター(変数)は無数にあるのです(換気、マスク、手洗い、うがい、洗っていない手で顔を触らないなどはもちろんのこと、感染が危惧されるお店の補償付きの自粛、老人及び老人と一緒に住んでいる人の外出規制などなど)。それを「接触8割減」などと「一億総玉砕」的に言うこと自体がバカげています。実際、仄聞するところだと、アイスランドスウェーデンなどの北欧諸国はコロナ対策と社会生活を両立しようとして、それなりに上手くやっているらしい。コロナとの「付き合い」が長引くかもしれないことを考えると(それは、ほとんど確実でしょう)、この「バランス感覚」はますます必要になってきます。
 小説『ペスト』の中でカミュが描き出していたのは、その「連帯」によって感染症と闘う人々の姿でしたが、まさに、徹底した自粛によって感染拡大を防げたのだとしても、それによって日本人が〈連帯=生き甲斐〉を失った〈生きる屍=ゾンビ〉と化しては元も子もないのです。それは、まるでプライマリーバランス黒字化目標を達成した瞬間、デフォルトしたギリシアやアルゼンチンのようなものです。

 ついでに、カミュの『ペスト』を引き合いに出して書いた過去のメルマガと、先日、出てきたチャンネル桜さんの二つの討論も紹介しておきます。

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