批評の手帖

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ナビゲート2020(毎日新聞)に「『人災』としてのコロナ騒動」を寄稿しました。

mainichi.jp
 毎日新聞の「ナビゲート2020」に、「『人災』としてのコロナ騒動」というコラムを寄稿しました。
 反発を承知で書きますが、私は「コロナ感染」より、「コロナごときで、ここまでアタフタする日本人の醜さ」の方が耐えがたい。感染者(あるいは、その可能性がある人)が「ウィルスをまき散らさないように」とマスクを欲しがるのは分かります。が、健康な人間が、あまり予防効果のないマスクを買い占め、果てはティッシュや、トイレットペーパーの買い占めに走るということの意味が分からない。あるいは、ウィルスとの「付き合い方」を一切考えずに、ただ「封じ込め」に躍起になって、それができないとヒステリックになるという日本人の心性が分からない(ウィルスの「封じ込め」は原理的に不可能なのだから、一度感染が広がれば、それとは「上手く付き合っていく」ほかはないのです。実際、コロナは感染率が異常に高いというわけでもないし、感染したからといって死ぬと決まっているわけでもないでしょう――80歳以上の方は寿命だと思って諦めていただくしかないかもしれませんが――)。
 いや、百歩譲って「封じ込め」の努力があり得たとするなら、それは昨年末に中国でコロナ感染が見つかったその直後だったはずです(遅くても1月まで)。にもかかわらず、春節インバウンドの呼び込みを1月末まで続け、ようやく中国人の入国制限を始めたのが、台湾に遅れること約1か月の3月5日。春節インバウンドへの忖度なのか、習近平来日への忖度なのかは知りませんが、日本国政府の顔が「日本国民」ではなく「中国」の方に向いていることは明らかです。
 それでいて、感染が拡大すると、一切の「基準」や「出口戦略」を示さずに、ほとんど思い付きで「自粛要請」や「休校要請」を発表するという安倍政権の安易さにも虫唾が走る。「やっている感」の演出のつもりなのかどうかは知りませんが、どれくらいの規模のイベントなら自粛すべきなのか、補償はあるのか、感染者が出ていない学校も休校にすべきなのか、入試や卒業式はどうするのか、共働き家庭はどうすればいいのか、今より感染が拡大している可能性の高い4月以降はどうするのか…それらの当然起こってくる疑問に答えないままに示された政府発表は、いたずらに国民の不安を煽っただけでした。
 実際、学校の代わりに「学童保育」を活用すればいいとは言うものの、教室より狭い密閉空間に子供たちを押し込めておいて「ウィルスの封じ込め」も何もないでしょう。さらに言えば、小中高校生より幼い子供を預かる「保育園」は通常営業だし、街のカフェや喫茶店では、オジちゃんオバちゃんは云うまでもなく、暇を持て余した中高生が、今も飛沫の飛び散る近さでお喋りに夢中なのです。
 やることなすこと全てがチグハグ。それもあって、今や、リーマンショック東日本大震災をしのぐ勢いで国民生活=経済生活が下降線を辿っているのだとすれば――普通に働いている自営業の人がどれほど疲弊しているかは肌身感覚で分かります――これは、安倍政権による「人災」としか言いようがありません。果たして、コロナ感染者と、今回の消費増税とコロナショックで職を失う人間のどちらの方が多いのか…。
 それにしても、なぜ、ここまで「危機管理」ができないのか。これも、戦後75年間もの長きにわたって「国家」について考えてこなかったことのツケの一つなんでしょう。が、果たして、それを自覚できている日本人はどれほどいるのか。しかし、これ以上書くのはやめましょう、血圧が上がるだけです(笑)。