批評の手帖

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「小説の運命」を寄稿した『新潮』(五月号)が、昨日発売になりました。

新潮 2016年 05 月号 [雑誌]

新潮 2016年 05 月号 [雑誌]

 「小説の運命」を寄稿した『新潮』(五月号)が昨日、自宅に届きました。
 この「小説の運命」という原稿は、期せずして私の「勝負原稿」になったと思っています。小林秀雄が言うところの「糞度胸」によって書かれたこの論考は、研究論文でないことはもちろん、エッセイでもない、まさに「批評文」としか言いようのないものに仕上がっています。内容としては、ドイツ・ロマン派に「小説」の原理を、フランス文学史に「小説」の歴史を、そして明治から昭和戦前期に至る近代日本文学史のなかに「小説」の終りと「批評」の自覚を問い尋ねながら、その上で改めて、なぜ90年代後半に「近代文学の終り」(柄谷行人)が語られなければならなかったのか、またそれなら、今現在において「批評」を書くとはどのような営みであるのかということについて考えています。
 ちなみに、こういう自分自身に近すぎる原稿というのは、語ってしまうと嘘になってしまいがちなのですが、ここでは敢えて大見得を切っておきましょう。これは私なりの「様々なる意匠」(小林秀雄)であり、「文明開化の論理の終焉について」(保田與重郎)です。ということは、逆に言えば、その次の一歩こそが問われるようなものだと言うことです。「様々なる意匠」を書いた小林は、その後に『ドストエフスキイの生活』や『ドストエフスキイ・ノート』、あるいは「無常という事」以下の古典論に向かうことで、己の文学を証明しました。また、保田與重郎も『戴冠詩人の御一人者』や『後鳥羽院』に向かって行くことで己の信念の在処を示しました。さて、私は、これからどうしようかと、今、考えているところです。書いてしまったことから始まる次の一歩があるのだとすれば、図らずもこの批評文は、そんな次の一歩を強いるような作品になってしまったような気がしています。もちろん、今後の自分の仕事についての予感がないわけではないのですが、今、それを言っても嘘になるだけでしょう。具体的に歩いてみるしかありません。

 ちなみに、この「小説の運命」という作品は、「今、現在の小説に興味が持てない」と放言した私に対して、「それなら、その興味が持てないということの理由を書いてくれ」という清水さんからの挑発的で熱のこもった一言がなければ間違いなく書かれていません。そんな私の放言に真剣につき合ってくれて、しかも超絶に細かい疑問を突っ込んでくれた清水さんに感謝です!