批評の手帖

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生松敬三『社会思想の歴史』書評

社会思想の歴史―ヘーゲル・マルクス・ウェーバー (岩波現代文庫)

社会思想の歴史―ヘーゲル・マルクス・ウェーバー (岩波現代文庫)


 嫌々ながら、この国の1920〜30年代のプロレタリア文学運動を整理していて、そういえば、ついでにマルクス主義思想の大枠も簡単に復習しておこうと思って手にとった一冊。この本自体は昔からNHKブックスで持っていたのだけど、それには既に線が引いてある。で、読み返すには不便なので、改めて岩波現代文庫版を買い直した。だけど、この本、なぜか池袋リブロでもジュンク堂でも見つからなかった。先日、目黒区美術館に行ったついでにようやく目黒アトレ内の有隣堂で見つけることができました。

 結論から言うと、やはり記憶にたがわず社会思想史の復習にはもってこいの教科書本だった。ドイツ観念論からヘーゲル、そしてヘーゲル左派(フォイエルバッハ)からマルクスへという流れを押さえよう思ったら、これ以上に手軽で適当な本もないのではないだろうか(ただし、最後のマルクーゼ評価はいただけない)。特に感心したのは、後期マルクスの『資本論』の「物象化論」を決して初期「疎外論」からの切断としてはみないという姿勢。マルクスが語られる場合、最近では常に『ドイツ・イデオロギー』以前/以後という切断面が強調されてきた。が、それだけを強調しすぎると、マルクスを単なる哲学者や経済学者にしてしまう。つまり、後の構造主義への影響を重視して、ニュートラルな資本主義論・物象化論・貨幣論だけを評価すると、飽くまでも「自己疎外」を強いてくる市民社会=資本主義社会を克服するためにこそ『資本論』を書かざるを得なかったというマルクスの当初の「動機」が見えなくなってしまうのだ。その「動機」がなければ、そもそもマルクス共産主義を唱えなければならなかった理由が見えてこない。おそらく、昨今の左翼の迷走ぶりも「これが資本主義だ!」といった暴露的客観主義に傾いて、自らの動機=ルサンチマン疎外論という名の主観性)を隠蔽してしまっていることを自覚できていないからではないか?
 その意味で生松敬三『社会思想の歴史』は、ホッブス・ロック・ルソー・カント・ヘーゲルにおいて既に焦点化されていた「個人」と「社会」の対立と矛盾という問題史(市民社会論)の延長線上にマルクスを位置づけるという非常にオーソドックかつ古典的な解説に徹することで、逆に、むやみにやたらと難解化=現代思想化されたマルクスから、マルクスの「動機」を救い出している貴重な成果となっている。

 ただし、だからといってマルクス的アプローチが正当であったということににはならないが・・・。