批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

十条―東十条―赤羽散歩

 写真家の友人と久しぶりに東京散歩。で、今日は、王子に続いて北区散歩の第二弾。十条―東十条―赤羽へのコースをブラブラする。
 特に目的はない。ただ、抽象的に観念されるだけの東京にうんざりして、ただひたすら具体的に街を歩こうと決めただけ。「洗練のウォーター・フロント開発」だの「光の中のアーバンライフ」だの「緑の丘・家族の憩い」だの赤面してしまうデベロッパーの惹句にほとほと呆れ返りつつ、また、フラットに均されて味も素っ気もなくなったコンビニ的光景にうんざりしながら、ただ、自分たちが居を構え、生活を営んでいる土地に具体的に親しんでおこうといった程度のもの。で、まずは第四学区の都立高校出身者としては気安い北区あたりから散歩を始める。

まず十条駅に降り立つ。
 
 高校時代の友人住んでいたので、かつての十条にはよく行った。が、久しぶりだと新鮮。でも、やっぱり十条商店街はいつもの通りの活気があった。確か、昭和初期には既に、東京の五大商店街の一つに数えられていたというから歴史は長い。が、老人も多い。さすが高齢率都内NO1の北区!

商店街風景
大衆演芸場

 で、東十条方面に歩くといきなり次のような看板が。

 上の「大人のおもちゃ」の看板につられて、一瞬「オナ・アイデア商会」と読んでいる自分がいた。よかった「ナオ」さんで。

 その後、東十条で一番、いや東京で一番旨いと言われているラーメン屋「燦燦斗」でつけ麺をいただく。江古田のラーメンも負けていないが、確かにおいしかった。

 で、東十条商店街を抜けて赤羽方面に向かう。すると、そこに道路拡張計画に抵抗するかのように孤立する一軒のクリーニング屋さん発見。
東十条駅前の商店街 
鉄柵の中に浮かび上がる一軒のクリーニング店(青い看板)

 そしてトコトコと西赤羽の方に歩いていくと、坂の上から異様な風景が目に飛び込んでくる。古い団地群の中に真新しい新築マンションが頭を出している。赤羽台団地の建て替えだ。

 近寄って見ると、もっと異様。この対比のグロテスクときたら・・・。

 最後の光景など、ここは汐留か!と突っ込みたくなる。この嬉々として歴史を切り捨てるURの神経がわからない。税金の無駄使い。時間的な痕跡(掛替えのなさ)への無理解。修繕再利用という発想のなさ。いまだに高度成長期の都市計画のノリから抜け出せない実験住宅的発想。人間の棲家というものに対する舐めきった態度。URの悪口を言っていたらきりがない。
 ちなみに、自分の家も築40年の鉄筋コンクリートだけど問題なくやっている。あと十年で赤羽台団地と同じ年齢だが、おそらくその後もなんとかやっていくだろう。
 
 が、そんなことはお構いなしに団地の再開発は進む。で、この寂れた「赤羽台団地名店街」が残される。

 最後に目の前に現れた看板が全てを語っているように思われた。

 赤羽台団地は昭和37(1962)年に3373戸の入居が開始された日本を代表するマンモス団地。もちろん、団地という存在は都市への人口流入による住宅不足解消のために作られたという側面を持っており、それ自体が高度成長期に生み出され日本住宅公団(1955年発足)の夢だった。狭い住宅内で「寝食分離」(西山夘三)という西欧流の近代生活を実現させるために生み出された台所と食事室を結びつけた「ダイニング・キッチン=DK」という思想。核家族をモデルとして、全ての間取りを「51‐C型」という標準プランに向けて画一化した平準化の思想。つまり、多種多様な畳敷木造賃貸住宅から、40〜50平米の2DKの鉄筋コンクリート団地へという訳だ。
 しかし、それも昔のこと。「赤羽台団地」は既に半世紀の歴史を持つ「生きられた家」となっている。その味も臭いもある「赤羽台団地」という歴史を、無味無臭の、しかもフランスもどきの「ヌーベル赤羽台」で消してみせるという田舎根性が悲しい。団地開発という戦後の文明開化(アメリカ化)がようやく一段落し、それ自体が一つの歴史となりつつある今、しかし、また新たな横文字=文明開化がその痕跡をも消そうと躍起になっている。果たして、文明開化の付け焼刃はいつまで繰り返されるのだろうか・・・。