批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

『正論』の最新号(2024年4月号)に「保守派」批判の論考「喪われた『批判の作法』」を寄稿しました!

 先日、本当に久しぶりに『正論』に寄稿しました。題して「喪われた『批判の作法』」。
 今回の原稿は、あっさり言えば、今や「自分の外」に敵を見出し、ルサンチマンと被害妄想を膨らませながら、相手を罵倒するしか能がなくなった……つまり、「批判の作法」を見失った「現代日本の保守派」に対する批判文です。
 しかし、「保守派」の堕落は今に始まったことではありません。原稿でも書いているように、高度経済成長後に「国家」へと依存しはじめた「大衆」を見て自らのナルシシズムを肥大化させ始めた「保守派」は、その後のソ連崩壊によって棚ぼたで転がり込んだ「東西冷戦の勝利」を自分たちの勝利であるかのように錯覚し、それゆえに、冷戦を終えて庇護国から収奪国へと変わった米国の動向(グローバリズム)をも見極められないまま、その後の「失われた三十年」のなかでますますはしゃぎ始めることになるのです。そして、その先蹤が、「戦後の人気者」であった清水幾太郎の右旋回であり、また、その右旋回を「蕩児帰る」とばかりに迎え入れてた80年代の保守論壇の変質でした。その頃から、「保守派」は、「ものの言い方」(言論人の態度・姿勢)よりも、その「主張内容」(イデオロギー)を優先させながら、右なら味方で左なら敵という硬直した態度へと陥っていくことになるのです。が、それこそ、保守と見ればそれを頭から否定してきた左翼と同じ穴の貉ではないのか。
 ……と、書いているとキリがないので、あとは、実際に読んでいただければと思います。

 それにしても、今、思い出すのは、かつて、ある保守言論誌の編集者から言われた言葉です。彼女は言ってました、「今の保守派の人気者のほとんどは〝安部と共に去りぬ‶ですよ」と。しかし、全てが時代の流行でしかないのだとしたら、それこそ「言論は空しい」(福田恆存)と言うのが正しいのでしょう。が、「空しい」からといって何もしないのは、もっと空しくなるだけなので、依頼があれば、こうやって寄稿もするのです(笑)。