批評の手帖

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『表現者』(3月号71号)に、「私たちはだれなのか―〈ネイション‐ステイツ〉と倫理」を寄稿しました。

 「私たちはだれなのか―〈ネイション‐ステイツ〉と倫理」を寄稿した『表現者』(3月号71号)が今日自宅に届きました。
 “この私”の「倫理」を問うたときなぜ「国民国家」という単位が必要となってくるのか。この度は、その辺りのことを、「ナショナリズム」が生み出されてくる歴史的な必然=理路に沿って書いたものになっています。そして、もちろん、今「ナショナリズム」を考えるということは、アメリカの衰退とブレグジットに伴うグローバリズムの終焉、そして、特に中国とロシアを中心とした地域覇権主義の復興などの現実を見据えて、改めて「日本の命運」を問うということでもあります。が、既に「奴隷の平和」を70余年に渡って享受し続けてきた日本において、「健康なナショナリズム」が存在し得るということさえほとんど理解されなくなってしまっているのではないでしょうか(というより、私にとって「国民国家」とは、「健康なナショナリズム」か「不健康なナショナリズム」のどちらかの状態としてしか存在し得ず、現今の日本は間違いなく後者の性格を帯びているということです)。その意味でも、この国はもう、ほとんど手遅れであるような気がしてなりませんが、しかし、手遅れであろうとなかろうと、この日本に生を受けた以上、可能な限りの言葉を投げ続けていくしかありません。
 
 ちなみに、同号には「今こそ問われるべき、日本浪漫の意味」(井口時男×前田雅之×西部邁×澤村修二―敬称略)という、日本浪漫派や保田與重郎、あるいは蓮田善明や三島由紀夫に関心のある人間には、非常に興味深い座談が掲載されています。本来なら文芸誌に掲載されるべき内容ですが、このあたりが、さすがは『表現者』だと思ってしまいます。『批評空間』や『諸君!』、あるいは『en-taxi』なき今、「政治と文学」を自由に往還できる雑誌はもう『表現者』くらいしか残っていないのかもしれません。