批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

『表現者クライテリオン』5月号—「西部邁・永訣の歌」が4月16日に刊行されます。

 4月16日に『表現者クライテリオン』第二号―「西部邁・永訣の歌」が刊行されます。
 奇しくも西部邁自殺幇助者逮捕直後の刊行になりましたが、今、改めて自分の「西部邁論」を読んでも、修正の必要を感じません。それが、なぜなのかについては、読んでいただければ分かって頂けるものと思います。
 いずれにしても、今回の特集のために総勢64名もの方々から文章を頂くことが出来たのは本当に有難いことでした。左翼から右翼、政治家から漫画家、学者から評論家、そして西部邁の因縁の敵から長年の友まで、この特集に集って下さった執筆者の方々の努力によって、「西部邁という多面体」「西部邁という謎」を浮き立たせることが出来たと考えております。西部邁についての「アルバム」「年表」「書誌」「付録」などもついて永久保存版としての価値もあるかと思います。藤井編集長をはじめ編集委員も汗をかいてようやく仕上がった「追悼号」です。是非、お買い求めください!
 以下は、64名の執筆者の方々のご紹介と、もう一つ、この度の「西部邁自殺幇助者逮捕」のニュースを受けて書かれた私自身の意見表明(表現者クライテリオンのメルマガ記事)です。私自身の「けじめ」として、この個人用ブログでも発表させて頂きます。

表現者クライテリオン』5月号—「西部邁・永訣の歌」執筆者一覧(敬称略、おおよそ年齢順—長幼の序)
第一部―「西部邁を論ず」
 佐伯啓思富岡幸一郎小浜逸郎橋爪大三郎松原隆一郎、三浦小太郎、佐藤健志藤井聡、柴山桂太、村上正泰、中島岳志浜崎洋介、川端祐一郎、
第二部―「西部邁を追悼す」
 森田実野中郁次郎浜田宏一長崎浩、東原吉伸、中山恭子榊原英資、原洋之介、高山平一郎、佐高信脇雅史、大石久和、竹村公太郎、呉智英、宮本光晴、福田逸三田誠広上野千鶴子、芦澤泰偉、佐藤洋二郎、スガ秀実水島総中沢新一、杉原志啓、御厨貴、青山恵子、高澤秀次西村幸祐寺脇研小林よしのり東谷暁新保祐司、伊藤貫、前田雅之、木村三浩、雜賀風紗子、西田昌司、上島嘉郎、藤沢周中沢けい、澤村修治、辻本清美、兵頭二十八、八木秀二、占部まり、森川亮、藤原昌樹、施光恒、毛利千香志、適菜収、楊井人文

※以下は、4月11日に「表現者クライテリオン」メールマガジンとして配信された「西部邁自殺幇助者の逮捕を受けて――『表現者クライテリオン』が問われること」(https://the-criterion.jp/mail-magazine/20180411/)の全文です。念のため、このブログでも再掲しておきます。

 こんにちは、浜崎洋介です。
 今回は、予定を変更して、編集委員としてというよりは、私自身の「けじめ」として、二人の逮捕者を出した「西部邁自殺幇助事件」に触れざるを得ないと思っています。

 正直に書きます。少し前から私は、西部先生の自殺に関して、その幇助者がいるのではないかという噂を耳にしていました。ただ、そんな噂を耳にしはじめたのは、全ての追悼文と西部邁論(次号『表現者クライテリオン』に掲載予定)を書き上げた後のことで、自殺幇助の噂を聞いてから西部先生について書くのは、これが初めてのことになります(とはいえ、「西部邁論」の内容については、今なお私は、その訂正の必要を認めていませんが)。

 そこで、まず明確にしておきたいのは、今回の西部先生の自殺から、自殺幇助の疑惑報道、そして幇助者逮捕に至るまでの経緯のなかで、私が、どの段階で、西部先生に対する決定的な違和感を抱いたのかという点です。

 既に追悼文などで明らかにしていることですが、私は今回の「自殺」それ自体に関しては、特に問題にしてきませんでした。「保守」と「自殺」は矛盾するのではないかという話もありますが――つまり、自分より大きなものとしての「自然」(生と死)を受け容れ、それに従う姿勢を取るのが「保守」だろうとの趣旨だと思いますが――、私は、言行一致さえ果たしていれば、あとは西部先生と周囲の納得の問題だろうと考えていました。

 というのも、「自然」とは、人間の意志程度のものでどうにかなるものではないからこそ「自然」と呼ばれているのであって、人一人の「自殺」程度のことで、「自然」に逆らうも逆らわないもないと私は考えていたからです。言い換えれば、西部先生の今回の「自殺」は、「自然」に従う/逆らうという規準で考えるべき話ではなく、予め人間に与えられた「自然」のなかで選択された一つの行為として、まさしく「時と所と立場」によって、その適否(その自然さ)を見定めるべきものだと考えていたということです。

 また、自殺幇助についても、西部先生と幇助者との間に、もし契約関係があったのなら――つまり、幇助者がやくざか右翼だった場合には――法的な問題はさておいても、絶対に許されない行為だとは考えませんでした。というのも、その場合には、双方の間には「利害」を確認し合った(金銭授受を含めた)大人の合意があったと考えられるからです。

 しかし、今回逮捕され、その「容疑」を認めている二人の幇助者と西部先生との間にあったのは、おそらく契約関係ではありません。というのも、二人とも西部先生の思想に共鳴していた「弟子筋」にあたる人たちだからです――もちろん、私は二人と面識があります。そのことが明かになったとき、初めて私は、「それは絶対にちがう。先生は超えてはいけない一線を越えてしまったのではないか」という強い違和感を持ったのでした。

 というのも、これは教育に携わる人間ならすぐ分かることだと思いますが、師の言葉(思想)というものは、その非対称的な関係性において、ときに圧倒的な力を発揮してしまうがゆえに、その力の用い方については細心の注意を要するものだからです。

 たとえばそれは、精神科医と患者、教師と学生という非対称的な関係において、なぜ色恋沙汰が「禁忌」なのかを考えれば分かりやすい。その圧倒的な知識と論理、また、その精神的優位性を利用すれば、人の「心」に入り込み、それをある方向に誘導するなどということは朝飯前なのです。それゆえに、その力を上手く使えば(抑制的に使えば)、治療や教育に生かすこともできるわけですが、いや、だからこそ、その力を、依存関係の強化に使ったり、相手の人生を破壊するように使ってはならないのだということです。

 もちろん、そうは言っても相手(自殺幇助者)も大人ですから、西部先生の言葉に応えることの責任の重さは十分に自覚していたはずです(いや、自覚していたと思いたい)。ただ、それは建前としてはその通りですが、ときに「言葉の力」は、その建前を突き抜けて作用してしまうことがあるということも事実だと思います。そして、そんな「言葉の力」を最も熟知していたのは、他ならぬ西部先生だったはずなのです。実際、私自身、西部先生の側にいながら、ときに発揮される、人を焼き尽くすようなその「力」を常に感じていました。

 いや、だからこそ、西部先生は、「弟子」との関係においては、その一線を自覚しているはずだと思っていたのです。私が甘かったと言われればそれまでですが、藤井先生が指摘されている「言行一致」(倫理)の問題も含めて、そこは私は信じていたのです。

 もちろん、西部先生とは言え、一人の人間。ときに見せる言行不一致も、人間的弱さも、人間的な迷いもあったはずです。でも、そんな時でも先生は、それを何とか、あの強靭な精神力でねじ伏せようとしていた。その精神の振幅こそが、西部邁という男の複雑さと、その激しさを作り上げていたものであり、またその魅力の中心にあったものでした。

 その点、藤井先生と同じように、生徒への体罰で小学校をクビになったウィトゲンシュタインや、自分の子供を次々と捨てていったルソーの例を思い出してもいい。実際、私自身も、ときに「娘の手になつた、妻の手になつた、彼の実生活の記録さへ、嘘だ、嘘だと思はなければ読めぬ様な作家」であるドストエフスキーの怪物性を思い出すことがあったというのは事実です(小林秀雄ドストエフスキイの生活』)。それほどまでに、歴史上の「偉人」たちは、凄まじい内的葛藤(矛盾)を抱えていたということなのかもしれません。

 とはいえ、今回のことは、西部先生と私との信頼関係の問題です。それを踏まえた上で言えば、この度の自殺幇助で、妻子ある一般人の逮捕者を二人も出してしまったことは、やはり、西部先生の「保守思想」を裏切ってしまっている事件だと言わざるを得ません――事実、先生は、「知識人ごとき」が、発言する場所も権利も持たない一般人を決定的に傷つけてしまうことは、厳に慎まねばならないと、いつも私の前で仰っていました。

 もちろん、先生は、もっと軽い気持ちで――つまり警察が、そこまで調べると思わずに――その「幇助」を頼んでいた可能性はあります。が、もしそうだとしたら、やはり先生は、最後の最後でバランスを崩してしまっていたということになります。あれだけの「配慮」の人が、もし、その後の事について配慮を行き届かせられなかったとするなら、それは無意識にでも、他者に対する「甘え」があったせいだと考えざるを得ないからです。

 ただし、そうはいっても、なお私は、「西部邁」という人間の「全て」を否定できるとは思っていません。いや、違う。もっと正確に言うと、こうです。それでも私は、私自身が先生から蒙った「恩」の事実は否定できないはずだと。その「出会い」の事実がなければ、今、こうして、私がメルマガを書いているということもありえなかったのですから。

 しかし、それなら、なお一層のこと、これから問われてくるのは、『表現者クライテリオン』の姿勢でしょう。「西部邁」という男の何を引き継ぎ、何を切断するのか。その問いを引き受け、その問いに正面から答えていくためにも、この「運動」は続けていかなければならない。失敗したのだから、その全てを清算してゼロからやり直せばいいという話ではないはずです。いや、むしろ、失敗したのだからこそ、その傷ついた「過去」を、自分自身の身に徹底的に引き受けようとする道があるはずだと私は考えています。

 いずれにしても、今回の事件は、今後の私の「生き方」に緊張を強いたことは確かです。それがどんな緊張なのかということについては、これからの私自身の文業を通じて示していくしかありません。それが、今のところ、私が出した答えだということになります。

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