批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

来たる4月16日、『蓮田善明 戦争と文学』(論創社)刊行記念トークを行います!

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 来たる4月16日、井口時男先生の新刊『蓮田善明 戦争と文学』(論創社)をめぐって、【新宿本店】「蓮田善明 戦争と文学」(論創社)刊行記念トーク 「三島由紀夫と蓮田善明~文学と自決!~」 富岡幸一郎vs浜崎洋介vs井口時男(2019年4月16日) | 本の「今」がわかる 紀伊國屋書店という刊行記念トークイベントを開催します!『表現者クライテリオン』でもお世話になっている富岡幸一郎先生を交えての3人でのトークイベントになります。
 
 言わずもがなのことですが、井口時男先生は、私が心から尊敬する文芸批評家であり、かつ、大学院時代に私が教えを受けた師匠です。ただ、おそらく井口先生自身は、「お前には何も教えていない。お前は弟子ではない(おれは場所を貸しただけだ)」と言うかもしれませんが(というか、常にそう言われてますが)、私自身は勝手に「弟子」を名乗っています(弟子とは、常にそういうものです)。
 というのも、井口先生自身は常に、「私は、 「師弟関係」というものが嫌いで、自分自身がかつて一度も「師弟関係」の中に入ったことのない男です。 受験生向けパンフレットにも「文学は誰も助けてくれない」と書いていました。責任逃れではなく、その覚悟なしに文学も文学研究もできません。もちろん講義やゼミや必要な助言はしましたが、私がもっぱら心掛けたのは、修士課程であれ博士課程であれ、彼らの自主学習・自主研究の環境維持です。修士号だけでなく、博士号取得者も何人か出しましたが、私が「教えた」人は一人もいません。」(Wikipwdia訂正 : 文芸批評家・井口時男の方丈の一室)と言う人だからです。
 なるほど、その「助けない」、あるいは「教えない」態度には、私自身が何度となく挫折しそうになりましたが(笑)、だからこそ、こっちは勝手に、その一言一句から何かを読み取ろう(教わろう)と必死になったのだし、まさにそんな状況のなかでこそ、孤立無援の「自主学習・自主研究」を維持するための体力を養うことができたのだと思っています。あるいは、そうであるがゆえに、大学院を終えた今も、誠心誠意で「議論」できる関係を先生との間に作ることが出来たのだと思っています。その意味でも、井口時男先生は、学部時代からお世話になっている相川宏先生と共に、今も私が最も尊敬し、最も緊張する「師匠」です。
 関心のある方は、是非、ご参加ください。

蓮田善明 戦争と文学

蓮田善明 戦争と文学

ウェスタ川越で「芸術文化史―日本文学『批評は、なぜ小林秀雄から始まったのかー「様々なる意匠」を読む』」という講座を開きます。

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 埼玉の文化施設で、芸術文化史 日本文学『批評は、なぜ小林秀雄から始まったのかー「様々なる意匠」を読む』 | ウェスタ川越 多彩なふれあいによる地域活力の創造拠点というミニ講座(2019年6月2日・9日)を開きます。合計2回・定員20名(受講料1500円)の小さな講座ですが、参加者の皆さんと、じっくり、ゆっくり小林秀雄の「様々なる意匠」を読みたいと思っています。
 最近では、すっかり社会評論が多くなってしまいましたが、こっちが私の本領です(笑)。4月22日(月)9:00 より先着受付開始ということで、少し先のことになってしまいますが、興味のある方は是非ご応募ください。お待ちしています!

「ナビゲート2019」(毎日新聞)に「加憲論の無責任を問う」を寄稿しました

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 今月の毎日新聞のコラムは「加憲論の無責任を問う」です。
 最近、安倍政権と「保守派」がこぞって唱えている「加憲論」ですが、それが、自衛隊と国防に対して、いかに「無責任」なトンデモ論なのかを書いています。
 ただし、返す刀で「護憲派」の無責任も切っていますが…。そろそろ日本人も、いい加減「現実のなかで生きる」ことを考えたらどうなんでしょうか。いつまで「子供のナルシズム(感傷)」に浸っているつもりなんでしょうか……しかし、そう言っているそばから、「もう74年間も〝あなた任せの生き方〟に泥んでしまった日本人が立ち直るのは、戦争か、南海トラフでもない限り無理だろうな」という声が聞こえてきます。ということは、このまま日本人はズルズルと終わっていくんでしょうか(実に緩慢な死です)。戦前の「日中戦争」を笑う資格は誰にもないと言うべきです。

『正論』4月号に「日本の自死―暴走するリベラリズム」を寄稿しました。

 『正論』4月号に「日本の自死―暴走するリベラリズム」を寄稿しました。
 例のダグラス・マレー『西洋の自死―移民・アイデンティティイスラム』(東洋済新報社)を引き合いに出しながら、改めて日本の「移民政策」を批判した文章になっています。「移民政策」批判は、以前に毎日新聞のコラムでも書きましたし、『表現者クライテリオン』最新号でも特集していますが、今回の読みどころは、それを改めて思想的に纏め直した上で(分量としては過去最大の18枚くらい)、さらに「保守論壇」批判を展開しているあたりでしょうか。一節を引いておきましょう。
 「さらに絶望的なことは、この移民政策を押し留めるどころか、推し進めているのが、ほかならぬ保守派の安倍政権であるという事実である。にもかかわらず、この国の『保守論壇』は、未だに〈共産主義へのシンパ=左翼〉対〈資本主義陣営(アメリカ)の理解者=保守〉とでも言うような時代遅れの「冷戦脳」を引きずったまま、どうでもいいLGBT批判や反朝日キャンペーンにうつつを抜かし、その一方で、種子や水道や労働規制といった社会的共通資本やその制度を「交換」(カネ)に晒そうとしている安倍政権の過激なネオ・リベラリズム新自由主義政策)に眼を瞑り続けているのである。とすれば、この国の守るべき価値を見失っているのは、「リベラル」はもちろん(それはもはや敵でさえない)、「保守」も例外ではないと言うべきだろう。党派性に開き直るならともかく、取り返しのつかない形で、〈この国のあり方=私たちの生き方〉を変革しようとしている人間を支持する保守派の心性が私には分からない。・・・」と書いています。
 同じ誌面のなかで、文字通りの「朝日批判」や「安倍晋三首相の言葉」まで載せている『正論』が、よくこれを載せてくれたと思います。編集長に感謝です。

「表現者塾」を立ち上げるに当たって、塾生を募集します!

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 前回に告知したばかりですが、この度『表現者クライテリオン』主催で、「表現者塾」を立ち上げることになりました。
 詳しくは、上記の藤井聡編集長のメルマガをお読みいただければと思いますが(――この藤井編集長のメルマガは、かつての「発言者塾」「表現者塾」の雰囲気を見事に表現しています)、基本的には月1回の開催で、講話を担当するのは、表現者クライテリオンの編集員、執筆者である藤井聡、柴山桂太、浜崎洋介、川端祐一郎、富岡幸一郎佐藤健志、施恒光の7名(敬称略)です。編集委員のなかで、なぜか私だけが東京に住んでいるということもあって(笑)、毎回の司会は浜崎が担当させて頂きます。
 ちなみに、会場が「東京」ということもあって、塾に直接参加できない地方に住む塾生の方には、当日の講話の動画を配信したいと思っています。また、表現者塾では、この国の将来を担う「若手」を育てるという意味を込めて、学生参加者に対しては「学割」(半額)を考えています(それでも、25000円の年会費は、今どきの学生にとっては高いのかもしれませんが…どうかご容赦ください)。
 塾の内容としては、昨日も、柴山さん、川端さんと三人で話していたところですが(藤井先生は、ご多忙のため昨日の昼食はご一緒できませんでしたw)、「時事ネタ」を取り扱いながらも、それをできるだけ「思想的、哲学的」に深める話ができればと考えています。あるいは、表現者塾の場合、いまさら常識である「ネオリベ批判」をする必要もないだろうから、いきなり「思想」の話に切り込むのもアリかと思っています――それにしても、話していていつも思いますが、『表現者クライテリオン』関係者はホント思想好きです。その点、ポジション・トークとどうでもいい自意識(ルサンチマン)にまみれた「右」や「左」には、この「思想」(つまり、知性の限界で見つけた信念)の手触りがないんですね。
 
 第一回目の講話者は、もちろん藤井聡編集長です。参加希望の方は、「表現者塾」を開講します! | 表現者クライテリオン を参照していただければと思います。詳しい講和内容などは、追ってご連絡差し上げたいと思いますが(バタバタですみません)、まずは「表現者塾」開催をお知らせしなければと思い、取り急ぎ告知させて頂きました。奮ってご応募ください!

『表現者クライテリオン』最新号(3月号/2019年)が発売になりました!

表現者クライテリオン 2019年3月号[雑誌]

表現者クライテリオン 2019年3月号[雑誌]

 今日、『表現者クライテリオン』最新号(3月号/2019年)が発売になります!
 今回の特集は二つで、一つは「平成デフレーションーいま終わる、昨日までの閉塞時代」と題した平成総括。
 もう一つは、「移民政策で日本はさらに衰退する」と題した時事批評―今、目の前にある「危機」に対する批評です。
 どちらも時宜にかなった特集ですが、頂いた寄稿原稿はどれも充実していて、いつも私自身が勉強させていただいております。
 また、今号で、『表現者』が『表現者クライテリオン』になってから丁度一年がたったことになります。西部先生からは「半年で終わってもいいから」と言われて引き受けた雑誌でしたが、一年たって、むしろ勢いは増しています。これからも、藤井編集長を中心に、編集委員、編集スタッフ、啓文社スタッフ一同しっかりスクラムを組んで、この『表現者クライテリオン』という稀有な場所を守り、育て、発展させていくことができればと思っています(今年から、日本全国を回ってのシンポジウムとは別に、定期的に東京で「表現者塾」を開催する予定です。詳しくは、メルマガ等で告知することになると思いますが、何卒よろしくお願い致します)。
 また、今号では、平成30年度「表現者賞」の受賞者発表と、その受賞者である磯邊精僊氏(いそべせいせん氏・27歳)による「我が育ての親、平成の相貌」という受賞後第一作が掲載されています。雑誌を、「新人」を見出し、育てる場として機能させていくというのも、その当初から編集委員全員の願いでありました。その願いが少しでも果たせたのであれば、これ以上嬉しいこともありません。その他、書評や読者投稿も充実しています(読者投稿は、毎号レベルが上がっています)。
 いずれにしても、『表現者クライテリオン』は読者のみなさんからのご支援あっての場所です。これからも何卒よろしくお願い致します(定期購読は、こちらからお願い致します→https://the-criterion.jp/subscription/)。

 私自身の名前が出ている仕事としては、「平成特集」の方で、與那覇潤氏との対談「平成文化論―『言葉の耐えられない軽さ』を見つめて」が一つ。また、いつもの「対米従属文学論・第五回―戦後ニヒリズムへの監禁(大江健三郎)」と、連載「日本近代批評史試論・第六回―小林秀雄と『批評』の誕生②」があります。與那覇さんには、改めて感謝申し上げるとともに、是非、一読していただければと思っています。
 以下は、3月号の目次です。ご参照下さい。

目次
〔特集1〕平成デフレーション――いま終わる、昨日までの閉塞時代
•暴走するリベラリズム、破壊された平成日本――本物のナショナリズム復権する新時代の闘争へ/小林よしのり藤井聡(対談)
•平成文化論――「言葉の耐えられない軽さ」を見つめて/與那覇潤・浜崎洋介(対談)
•改革狂の時代――平成を振りかえる/佐伯啓思
•思想のデフレーションの時代としての「平成」/仲正昌樹
•オタクとサブカルの三十年史/中森明夫
•取り返しがつかなくなってから騒ぐ人たち/適菜収
ナショナリズム不在の平成/黒宮一太
•平成とボヘミアン・ラプソディ佐藤健志
•我が育て親、平成の相貌/礒邊精僊

〔特集2〕移民政策で日本はさらに衰退する
•移民政策で日本はさらに衰退する/施光恒・黒宮一太・柴山桂太・川端祐一郎(座談会)
•No nation, No border――暴走するドイツ移民政策とメルケル首相の功罪/川口マーン惠美
•改正入管法に係る政策的課題と施行に向けて政府がなすべきこと――「亡国の移民政策」にしないための処方箋/室伏謙一

〔連載〕
•思想としての防災(2)/大石久和
•時が場所をつくる条件(3)/松原隆一郎
•日米通商協定交渉(FTA交渉)が破壊しようとするもの――農業にとどまらない国民生活上の重大問題/磯田宏
•対米従属文学論:戦後的ニヒリズムへの「監禁」――大江健三郎「後退的青年研究所」「セヴンティーン」について/編集部(座談会)
高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史・戦後文学篇』から/富岡幸一郎
ビスマルクの武断主義と避戦外交 Part1/伊藤貫
•官僚制化する世界/柴山桂太
•大衆化を加速する、地方へのインフラ投資不足/藤井聡
小林秀雄と「批評」の誕生②/浜崎洋介
•軽んじられる「孤独」の価値――グループ討議は創造性を高めない/川端祐一郎
•実践史学批判/佐藤一進
•北海道開拓という「人道に対する罪」/古川雄嗣
•危機の時代、記者は暗号で語る/松林 薫
平清盛を継いだ頼朝――なぜ、頼朝は辺境の地・鎌倉に?/竹村公太郎
•「人手不足」を解消したければ、積極財政でデフレを脱却せよ/島倉 原
•2019年は『大英雄』の時代だ!/佐藤健志
•王政復古、七月王政二月革命――フランス正史の暗渠/平坂純一
•何処でもない街――ポール・オースター「ニューヨーク三部作」(上)/鈴木ふさ子

〔書評〕
•ダグラス・マレー著『西洋の自死――移民・アイデンティティイスラム』/折田唯
ジル・ドゥルーズ著『基礎づけるとは何か』/篠崎奏平

〔投稿等〕
•平成30年度「表現者賞」発表――受賞作品:磯邉精僊「日本に軍隊は存在し得るか」
•読者からの手紙

「ナビゲート2019」に、「学校の『統治』について」を書きました。

 今月の毎日新聞のコラムは「学校の『統治』について」というものです。
 少し前に問題になった、東京都立町田総合高校の「体罰事件」について書きました。が、私の視点は「体罰」にはありません。題名に記した通り「学校の『統治』」です。このままでは、教師の後ろ盾(権威と権力)が瓦解し、教師の現場放棄によって学校の「統治」が成り立たなくなってしまうのではないかという疑問を呈しています。一読していただければ幸いです。
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